昭和44年05月14日 夜の御理解



 信心と言うのは神様と交流を図る事です。そのう一心とか真心とか又は様々の真心からの奉仕とか言う様な事で、神様と交流する実感が頂けます。御霊様の事でも同じ事。御霊様でも本当に御霊様がお好きであった物をお供えしたり、又は暑いから寒いからと言うて、暑い寒いにでも心を使うて、御霊様の喜ぶような事をさせて頂くということで、なんか御霊様と交流するものを感じる。それが私信心だと思うですね。
 ですから例えば今日の高松さんのところの御霊様の、今日はお立ち日だと言うので遺族の者が、思いをそこに細やかでも現して、そして玉串のひとつでも上げさしてもらうと言う様な、言うなら形式であり形であり、それを神様が御霊様が食べて下さる事を、飲んで下さる事を出来んに致しましても、こちらの心がなんとはなしに交流した。交流したものを感じるとそれが信心。
 目にも見えない形にも現われて来ないのだけれども、やはりあのう心がある以上その心がやはりそういうこのう。礼拝とか又は特にお祭りとならお立ち日とかと言う様な時には、そうした思いを込めての事がなされる。それがあのう御霊様に通うたような実感がこちらに頂ける。というのもそれが信心だ。そこから有り難たいと言うものが交流して来る。そこに私共の信心生活がある訳ですから、形から心だけでと言う訳にはいかん。
 心と形とがひとつになって、神様と又は御霊と交流するのがお祭りであったり、霊祭であったりすると、それを思いを込めれば込めるほどその交流が切実なものになって来る。その切実なものを真に有り難いとこう言うのであります。だからこりゃもう信心さして頂く者の、信心さして頂くもんじゃなかならければ、いわば分からないと言うところでございましょう。今日の御霊様へもそうゆう意味で有り難いと私は思う。
 けれどもそこに思いが強ければ強いほど、その結果に生まれて来る有り難いと言うものもある訳ですから、いよいよ思いを込めさしてもらわなければならんと言う様な事が分かる。こりゃもう本当にあのう思いですね。その思いがもうちょっとした形に現わされる、そこから確かに交流を感じる。信心の稽古をさせて頂くと言うことは、そういうな事もやはり稽古だと思いますですね。
   どうぞ。